東京高等裁判所 昭和26年(う)633号 判決
原判決が本件公訴事実中電車往来危険の点につき犯罪の証明がないと認めた理由の要旨は、論旨摘録の通りである。よつて以下その当否につき審按する。
刑法第百二十五条の電車往来危険の罪は、電車の衝突、脱線、顛覆等の事故を生ずべき恐れのある状態を作為することにより成立し、必然的又は蓋然的に危険の発生すべき場合であることを要しないものと解すべく、この見解は論旨援用の大審院判例を始め、夙に同院判例の累次示し来つたところであつて、同罪の性質上右解釈を以て正当とする。今、本件についてこれを見るに、原判決が電車往来危険の公訴事実を無罪と判定した窮極の理由は、要するに原判示人民電車第一号及び第二号の運行は、所轄新橋管理部当局の業務命令に違反して為されたけれども、その運行の計画及び実際において、平常の場合と同様の国鉄所定の法則に従つたものであるから、他の電車の往来に障害となつたとは云えず、衝突等の事故発生の可能性があるとは認め難く、又被告人等に同罪の犯意があつたことも認め得ないと云うに帰する。
そこで先ず、本件人民電車の運行が電車往来危険発生の可能性を有するや否やの点につき審究するに、一件記録殊に論旨援用の諸証拠を綜合考察すれば、右人民電車の運行がその行為自体の性質上、従来の経験則に照らし絶対に他の電車の往来に障害を及ぼす虞れがなく、従つて衝突等の事故発生の可能性が絶無であるとは断じ難い。蓋し国有鉄道の如き公共企業体の運営は、凡て業務命令によつて統轄せられ、電車の運行においても、右命令の下に所定のダイヤに基き整然たる秩序と渾然たる調和とを保ちつゝ、恰も全一体として一糸乱れざる作業を遂行すべきものであつて、苟も業務命令に違反するような電車の運行は、所論の如く正当なる業務行為と認め得ないのは勿論、右違反行為の画く波紋は、いわゆる一波万波を呼んで運行全線にわたり各列車間の有機的連繋を鈍らせ、正常なる電車の運行計画に狂いを生ぜしめ、延いて同区間の電車往来に危険を生ずべき状態を惹起する虞れのあることは、これを看取するに難くないのである。本件人民電車の運行は、所轄新橋管理部当局の業務命令に従わず、その意に反して敢行されたこと明白である以上、他の成規の電車のダイヤを乱し、その運行区間全線にわたり先行電車又は後続電車との間隔の短縮、一閉塞区間への二個以上の電車の進入(いわゆる無閉塞運転)等、適正なる電車運行の秩序を破り、因つて他の電車の往来に障害を与え、衝突等の危険を発生すべき状態を惹起する可能性のあつたことは、容易に推認し得るところである。原判決は、本件人民電車の運行により他の電車の往来に危険を生ぜしめる可能性があるとは認め難いと判定し、その主なる論拠として、右人民電車の運行に当つた被告人等がそれまで成規の運転士又は車掌であり、且つその運行区間も日頃被告人等の受持線区であつたこと右電車の運行に当つては所定のダイヤに準拠し、運転士の諸規則注意義務を遵守したものと推認されること、所轄新橋管理部当局及び管下各駅掛員が事前連絡によつて応急的保安措置を講じたこと、本件当日運行区間の一部が殆んど運転休止の状態にあつたこと等を強調縷説しているけれども、かくの如きは当時偶々存在した事実又は概ね期待し得べかりし特殊の事象を捉えて、結果的に電車往来の危険を防止し得べき状況にあつたことを論断するものに外ならない。成程、自動閉塞式信号機の如き機械設備は、原判示の通り確かに事故防止のための優秀なる保安装置には違いないが、国鉄電車の運行が凡て右信号機のみによつて完全に操作せられるものならば格別、現実において国鉄当局の業務命令に従い乗務員の手によつて計画的に運営されなければならぬものである以上、業務命令に違反する本件人民電車の運行、殊にその運行の開始にあたり、原判決認定の如く多数の威力を示し、信号掛をして業務命令に違反し出発信号機を進行信号現示にするの己むなきに至らしめた該電車の運行を目して、原判示のように他の電車の往来に障害を及ぼさぬものと断定することは、到底首肯し得ないところである。これを要するに、原判決は原判示人民電車の運行による具体的現実的危険性の不存在を理由として、電車往来危険罪の成立を否定するものであつて、その失当なることは冒頭説示によつて明白である。
次に被告人等の同罪の犯意の点につき按ずるに、被告人等が原判示の如く、本件発生当時まで何れも成規の乗務員として、電車運行の実務経験者であつた以上、業務命令に違反する原判示人民電車の運行により、前叙の如き電車往来の危険を発生すべき虞れある状態を惹起すべきことは、当然予見すべきところであり、記録に徴してもこれを裏付ける証拠が備わつているのであるから、原判決が被告人等に同罪の犯意があつたことも認め得ないと判断したのは、これ亦失当であると云わねばならない。
然らば原判決が所論電車往来危険の公訴事実に対し、無罪の判定を下したのは、判決に影響を及ぼすこと明らかな事実の誤認であるから論旨は理由があり、原判決はこの点において破棄を免れない。